夫婦間の信頼が崩れるのはどんな時か。
それは困難や試練の中で、相手がどんな言葉や行動をとったかによって
信頼が深まるか壊れるかが決まると思います。
(その問題に大きい小さいはありません。)
問題が発生したらそりゃ慌てるし気持ちを整理する時間も必要でしょう。
けれど、当事者が一番辛いんですよ。
お互いが割り切っているのなら別ですが
相手に愛情も無いのなら共に暮らし続けるのは失礼というか…
お互い苦しいと思います。
そして
相手と自分の気持ちが不一致な場合。
人の気持ちを自分の思う通りにすることは不可能なこと。
そこは大前提の上でそれぞれが自分の問題と向き合うことが最初かなと思います。
このblogでは夫婦関係の日常で起きる小さなと思えるような
え?…
と思える相手の心無い言葉や行動で傷ついた時について。
私なりですが思うことを書いていきます。
何気ない日常の中で
ある時ふと「え?」とショックを受けることがある。
何でもない、いつもの日常は
毎日続くとは限らず
ある日突然プツンと切れることがある。
それは
・同居する家族が倒れた時だったり
・今まで暴かれてこなかった問題が浮上した時だったり
・親の介護問題だったり
・相手の気持ちを考えすぎて自分がストレスフルになり爆発させてしまった時だったり…
諸々…
嬉しい時
楽しい時
そういう時は良いのですけれど
家族なのに、夫婦なのに、
突発的な問題が起きた時
何の相談もなく勝手に相手が自分一人の問題じゃないのに決めてしまっていたり
困っている状況なのに何の配慮もなく見て見ない振りをされ続けたり
言ったことしかしてもらえなかったり(でも、しないより全然良い。)
そんな時
「え?…」
この後、言葉を失う。
そして
・大切にされていないと感じたり
・自分一人の問題ではなく家族(夫婦)にも影響が出る問題なのに
何も相談もなく勝手に決められて
自分の存在の意味は何なのかと虚しくなったり…
こういうことが原因の一つとして夫婦関係にヒビが入るのだと思います。
例えば家族で車に乗っていると想像してみてください。
家族・夫婦ってある意味「運命共同体」です。
ハンドルは主が握っていたとしても、同乗している家族に対して
何も行く先を告げることなく
行き方も数通りあるにも関わらず何の相談もなくアクセル踏まれたら
一緒に同乗している家族は不安しかありません。
(ミステリーツアーやサプライズが目的なら別ですけど。)
最終的判断は主がするにせよ
了解は同乗者に取るべきです。
ガタガタ道かもしれない。
高速でも渋滞かもしれない。
そういう可能性もあるけれど共に行ってくれるか。
そういう了解は取る必要があります。
それをせずに何も告げずに行くのは無責任です。
仮にそうせざるを得ない状況だとしても
「今は言えないけれど信じてついてきて欲しい」くらいはね。
それが責任ってものでしょうよ。
同乗者の手元にはハンドルもアクセルもブレーキも無い
例えば車酔いしている人が居たら休憩を入れて少し空気を入れ替えたりして
落ち着くまで待つということが必要だったりします。
それもしてもらえずに無視をされたら
その家族は大切にされていないと感じるのは
至極当たり前だと思います。
考えてみてください。
具合が悪いんですよ。
訴えてるんですよ。
今すぐ車から一度降りて休みたいんです。
だけど停めてもくれない。
パーキング場を調べて探してもくれない。
スピードも変わらない。
自分の意思で車から降りたくても降りられないんです。
ハンドルもブレーキもアクセルも主が握ってますからね。
これ怖いでしょう。
その主から自分に対して思いやりや愛情を感じるのは困難だと思います。
だけど、これ、他人ならどうでしょう?
会社の同僚や友人とドライブ中、体調を悪くしたら?
同じことが出来るんでしょうか?
私達は他人には思いやりを向け優しくできたりしますが
身近な家族に思いやりや優しい言葉がけや感謝を忘れがち。
これは何故でしょう???
夫婦喧嘩の一つに
普段は良いけれど困った時に助け合えない関係だと分かった瞬間
ショック過ぎて言葉に出来ず時間だけが流れ
随分後になって勇気を振り絞ってやっとの思いであの時のことを告げたら
「今さら言うなよ。」
って逆切れする方がおられたりしますが…
それは違いますよ?
それだけ相手はショックが大きすぎて
直ぐには言葉にして言うことが出来なかったということです。
共に長年過ごしている相手だからこそ
ぞんざいに扱うと関係を悪化させます。
もし、相手が自分を大事にしないとか
暴力をふるうとかなら
そんな相手に思いやりを向ける必要はなく
離れて良いと私は思います。
大事にされない私→私が私を大事に出来る自分へ
自分を大事にしてくれない人から離れても良いと言いましたが…
この先は「ご自身を大事に出来る自分」になれると良いですね。
自分自身も自分に対してついつい辛くても辛抱してやりがちなところがあるかもしれません。
この部分については後日書きたいなって思っているところです。
(そこが見付けられたら、相手との関係を見直せるかもしれません。
相手だけではなく、そもそも自分の内側の傷も問題だったと…)
まず、熱があるのに無理して動いたり
痛みがあるのに我慢して家事をするのではなく
しんどがっている自分
痛がっている自分のその訴えを聞いてあげて下さい。
自分にそんなこと出来ないわ…
という方は自分の大事な人がそんな状態で動き続けていたら?
自分の子供や親友。
あなたならどんな声をかけるか想像してみてください。
想像出来たら
それと同じことを自分にしてあげてくださいね。
家族やパートナーに思いやりを向けられない人へ。
これは良くあることの一つ。
けれど、全ての人に当てはまるとは限りません。
そこを前提として…
家族やパートナーに思いやりを向けられない人へ。
自分のご両親はお互い思いやれる関係でしたか?
風邪を引いたとき
怪我をした時
特に母親がそんな状況になった時
父親は家事を引き受けて母親を大事にされていましたか?
「父親の親」の介護をしている時、母親に休みはありましたか?
私の勝手な妄想ですが
これができていたご家族・ご夫婦は極々少ないのではないかと…
傍で見ていたなら、どう動けばいいか覚えていると思います。
見ていないからどう動けばいいか、どんな言葉を掛けたらいいか
分からないのだと思います。
分からないのなら聞けばいい。
これは今までにも何度か書いているけれど…
分からないのなら直接本人に聞くことです。
それも面倒臭そうにではなく。
困った時に、して欲しいことがいつでも言える状況に環境を整えることです。
例えば熱があってベットに横たわっているなら起き上がる時辛いと思います。
そういう時、呼び鈴を傍に置いてあげるとかスマホで呼ぶように伝えるとか。
その代わり自分も
呼び鈴が鳴った時
スマホが鳴った時
すぐに出られるようにしてあげると不安を感じさせずに済みます。
体調がすぐれない時はメンタルも落ちやすいですから
不安を感じさせないことが大事だと思います。
親の介護問題なら妻に任せっきりにしないことです。
休日交代するのは当たり前です。
法によれば(同居している場合を除き)自分の実の親でない限り
介護義務は無いそうです。
つまり妻のその行為は善意だということです。
少し厳しいことも書いてしまったかもしれません。
昭和世代の私は今生きていて思うことがあります。
あの時代に当たり前だったことは
今は当たり前ではなくなっていることが沢山あるなと。
そして、世の中も良くなっていこうとしているのだと思います。
あの時代、これは当たり前だった、常識だった。
そんなことが通用しなくなってきていることにも
気が付いていかないといけない世代なのだと思います。
男子厨房に入らず。
女は男の三歩後ろを歩け。
前者は男性は台所でご飯を作らない。
という意味らしいです。
後者はいつ敵に襲われるか分からないから
いつでも刀が抜けるように女性は少し後ろを歩きなさい。
という意味だそうです。
刀を抜く時近くに女性が居ては守れない。危険。
つまり女性は大事にされてきたのだという意味でもあるそうです。
昔から言われてきた言葉には今でも良い言葉だなと思うこともあるし
それはもう時代に合っていないかもと思うものもある気がします。
私達は何を継承してきたのでしょう?
脈々と続く代々受け継がれてきたエネルギーは
本人の意図せずに機能不全を継承し
それが例えばモラハラともDVとも気が付くことなく
当事者同士依存しあってしまうこともあると思います。
気が付けたなら抜け出すチャンスです。
その勇気は小さな一歩のようで大きな一歩でもあります。
私はその勇気をいつだって歓迎します。
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カウンセリングにクライエントさんが来られる時の目的は
それぞれだけど
カウンセラーは常にクライエントさんの「今」に注目し
心と思考の一致を大事にしております。
参考になれば幸いです。


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