謝罪とは何か:誠実さと距離を縮めない選択#454

「謝罪されたら、距離は縮まるのか」

昨日のブログでは
家族関係:“自分は問題児”だと思い込んできたあなたへ…#453
家族の中で「問題児」の役割を担ってきた人について書きました。
その中で触れたのが、「謝罪」という言葉です。

今日は、その“謝罪”について、もう少し考えてみたいと思います。

私は、仮に万が一謝罪されたら、距離を縮めることができるのか?
カウンセリングの中で、そう問いを立てました。

出てきた答えは即答で

「無理だ。
それでも私は、距離を縮めない。」

なぜ、そう思ったのか。



2024年放送された日曜劇場「海に眠るダイヤモンド 」(主演・神木隆之介さん)
というドラマの中で
こんな趣旨のセリフがありました。

「あなたが私を許さなくても、私はそれを許す(受け入れる)わ。」

謝罪をしても、相手が許すとは限らない。
それでも、その結果を引き受ける。

私はその姿勢に、誠実さを感じました。

謝罪の目的とは何か

謝罪の目的が
「元の関係に戻ること」

…だとしたら?

それは、自分が楽になるための謝罪ではないかと私は思っています。

謝ることで許されたい。
今まで通りに戻りたい。
何もなかったことにしたい。

もしそこが目的なら、
そこには相手への“期待”が含まれている。

けれど、本当に謝りたいという気持ちからの行動には

条件がありません。

許してほしい。
関係を維持したい。
わかってほしい。

そうした意図がない。

謝罪とは、
相手が受け入れるかどうかではなく
自分が行ったその行為の
責任と向き合う。


ということだと思います。

誰かのために謝るということ

謝罪の中には、
「誰かのために謝る」という形もあると思います。

家族のために。
子供のために。
場を丸く収めるために。

それ自体は、決して悪いことではありません。

その瞬間、衝突は避けられ、
その場は収まるかもしれない。

けれど、その謝罪が
自分の本心と切り離されたものであるなら。

そのあとにやってくる未来は、どうなるのでしょうか。

また同じパターン(構図)が繰り返されるかもしれない。
また誰かが我慢する形になるかもしれない。

一時的に守れたものと引き換えに
長い時間をかけて失われていくものはないだろうか。

守ることと、奪わないことの境界

そして、もう一つ。

親が子供の代わりに謝ることで
子供が本来向き合うはずだった責任や経験を
奪ってしまうこともあります。

失敗すること。
気まずさや、居辛さを味わうこと。
自分の言動の結果を引き受けること。
(なかなか難しいし、失敗を繰り返す時もあるだろうけど…)

それは痛みを伴いますが
同時に「生きる力」を育てる大切な時間でもあります。

守ることと、奪わないこと。
その境界は
私のように受けたことがあまりにも少なかった人にとっては
とても難しいと感じるかもしれない。

まず自分の責任と向き合う。
そのうえで、誰かを守るために頭を下げるのなら
そこには静かな強さがあります。

それは、波風を立てないためではなく
自分の選択として引き受けた謝罪だから。

距離を縮めないという選択

私が「距離を縮めない」と決めたのは
変わらない構図の中に

もう自分を置きたくなかったからです。

一時の感情で動き
また自分を後回しにすることはできないと思いました。

謝罪はその行為と同時に
その人の内側が透けて見えるものです。
(私はこの内側をとても注視しているのだと思います。)

謝ること自体が極端に難しいと感じているのなら
そこにはまだ向き合えていない何かがある。
(ならば、謝らんでいいと私は思います。お互いにとって良くない。)

逆に
「謝れば済むならいくらでも謝る」という姿勢も
それは誠実とは言えない。

謝罪と誠実はセットで切り離せないものだと思います。

だから私は
相手に誠実である前に、まず自分に誠実でありたいのです。


距離を縮めないという選択も
ときに自分への誠実さの一つなのだと、今の私は思っています。


執筆:心理カウンセラー(対人関係専門)藤田侑杏恵(プロフィールはこちら)

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※音声配信は脱線しながらブログを読み上げて語っておりますが
ブログ記事は後日加筆修正されることがあります。


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