喪失感|大切な人を失ったあとも、時間は進んでいく#456

今日は、喪失感について、私の体験を通して最近感じたことを書いてみたいと思います。

大切な人を失ったとき、時間が止まったように感じた

大切な人を亡くしたとき
自分だけ時間が止まってしまったような感覚になりました。

私の身にこんなにも大変なことが起きたというのに

いつも通り時間がくれば
バスは走るし
銀行は開くし
スーパーも時間通りに開店する。

世間はいつも通り何事も無く日常を過ごしている。

私の世界は大きく変わってしまったのに
世界は何事もなかったように動き続けている。

その現実が、事実が、全然受け入れられませんでした。

喪失感の中で、人は自分を責めてしまうことがある

あれから三十年以上が過ぎました。
それでも、あの痛みが完全に消えたわけではありません。

最近、喪失の痛みについて考えることがありました。

大切な人を失ったとき、人はきっと
「もしあの時…」と自分を責めてしまうこともあると思います。

そしてご家族も、それぞれの立場で
同じように自分を責めてしまうことがあるかもしれません。

私はそのことさえ自分自身で気がつくこともできずにいました。

その日その日を過ごすこと
呼吸をただ繰り返して生きること
時間がただ過ぎていく中に身を置くこと

それが精一杯だったので…(それさえ当時は無自覚でしたが💦)

人の心は、ほんの一瞬で大きく変わります。

瞬間と瞬間の狭間で、
天と地ほど心が変わることがあります。

そしてその出来事を
この先何年も、何十年も抱えながら生きていくことになります。

生きることの痛みと、それでも人が希望を持つ理由

生きるということは、
様々な経験の積み重ね。

できることなら経験したくなかったと思うような出来事が
自分の身の上に起こることがあります。

人生は、ときに ”いばらのようなもの”だと感じることがあります。

美しく見えても、触れれば棘があり
痛みを伴うこともある。
おまけにその棘には毒が塗られていたりすることもある。
人を信じたことで傷つくこともあります。

そんなとき、ふと考えることがあります。

「生きる」ということ。
それがこんなにも大変なことなんだと
生まれてくる前から私達は知ってたのやろか?

スピリチュアルな世界では
生まれてくる前に自分の人生をある程度知っていて
それでもこの世に生まれてくるのだ。
…という話を聞いたことがあります。

もし本当にそうなのだとしたら――

少なくとも私は
最初からこういう人生を踏むんだと分かっていたら
「え〜〜〜〜💦嫌やん💦ほんで何かご褒美もらえるのかな?」😂
なんて言って、できるだけ、ごねて、ごねて、ごねて…
選ばずに済むように策を練ったかもしれないっっw

そう思うこともあります。

人は、例えば最初から失敗すると分かっていることに
なかなか取り組めるものではありません。

失敗するかもしれないと思っても
そこにはきっと
「うまくいくかもしれない。」という希望や期待があるからこそ
人はチャレンジできるのだと思います。

(だから私はこの人生を分かっていても
それでも、わずかな希望や期待を胸に
生まれてくることにしたのかもしれません。)

人は、何の希望もないところでは
行動することは難しいものです。

過去を振り返ったとき、
「あの時、こんなことになると知っていたなら…」
そう思うこともあります。

もう一度あの時に戻れると言われても
「戻りたくない」と思う自分もいます。

その一方で、
人生を振り返ったとき

「なんやかんや言うて、私の人生おもろかったな!」

そう言って終えられたらいいなと思う自分もいます。

そんな気持ちが
自分の中に混在するのだと思います。

時間は残酷でもあり、前に進む手助けにもなる

人生というものは、その人がどんな身分の人であっても関係なく
そして
身を切るような出来事が起きたとしても
誰もに平等に
時間は止まらずに進んでいきます。

それは残酷なようでいて
同時に少しずつ前へ進む手助けにもなります。

私はそのことを、自分の経験を通して知りました。

だからこそ
同じように深い痛みを抱えている人が目の前に来られたとき
私はその人の回復を信じて、ここにいようと思っています。

痛みはすぐには消えないでしょう…

それでも人の中には
前へ進んでいく力があります。

時間は止まらず進み続けます。

その流れの中で、人は少しずつ
自分の歩幅で前に進んでいくのだと思います。

それでもあなたは生きていていい

もし今、深い悲しみの中にいる人がいたなら
どうか自分を責め続けないでほしいと思います。

いいえ、本当はね
自身を責めることで何とか立っていられる状況であれば
それも良いと私は個人的に思います。

ここで一つだけお伝えさせて欲しい。
私達はそれぞれ
「自分の人生を生きています。」

誰かの人生のすべてを背負えるほど
人は万能ではありません。

だからこそ

”それでもあなたは生きていていい。”…生きていて良いのですよ。
そして、できることなら

生き抜いてほしい。

人はどんな経験を抱えていても
また少しずつ

”本当の自分に帰っていく道
(自分の人生を生きるということ)”


を見つけていくのだと
私は信じています。

あとがき

この記事は実は数日前に書き終えておりました。
ですが、いつ出そうかとタイミングを計りかねておりました。

私にとって自分の体験を書くということは
自分のことだけなら良いのですが
自分以外の人も含むことがあります。

となると、私は当人の承諾なしには書けません。

「晒す」という行為と繋がるからです。
似たような傷は多くの人が持っていると思いますが
大勢であろうが少数であろうが、その前で晒された時の痛みは
忘れることはなかなかできません。

だからこそ
本来なら晒したくないという思いも強くあります。

今回の記事は「晒す」という行為と
意思を自分で伝えることがもうできない亡くなった子供のことを
こうして書くことともつながります。

私がブログに誰かのことを書くときは
それが家族であっても
必ず本人の了承を得るようにしています。

今回のように衝撃が強かった出来事に関しては
やはり痛みを伴います。

ですが、その痛みはこの記事にも書いたように

”時間は止まらず進み続ける。
残酷なようでいて、同時にそれは
少しずつ前へ進む手助けにもなる。”


そのプロセスを踏んでいるからこそ
今こうして言葉にすることができています。

ひとつだけ誤解があるといけないので
お伝えしておきたいことがあります。

誰もがこれだけの年月を必要とするわけではありません。
これは、あくまで私の場合です。

「藤田さん、こんなに年数が経ってもまだあるんだ」

そう感じた方がおられたなら
それは少し違います。

傷は、必ず癒えていきます。

一人で立ち向かい
傷を無視して放任しない限り
大丈夫です。

執筆:家族関係の心理カウンセラー 藤田侑杏恵(プロフィールはこちら)

本日の音声配信 stand,fm

カウンセリングにクライエントさんが来られる時の目的は
それぞれだけど
カウンセラーは常にクライエントさんの「今」に注目し
心と思考の一致を大事にしております。

参考になれば幸いです。

今回も脱線しながらの収録配信となりました!

※音声配信は脱線しながらブログを読み上げて語っておりますが
ブログ記事は後日加筆修正されることがあります。


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