他人の気持ちや考えなんて本人しか分からないのに…
自分の気持ちをガン無視して
他人のことを思い計って、こうかもしれない、ああかもしれない、きっとそうだ!
っと思い込んで、相手が実際はそうではなかった場合
「え〜違ったの〜?」ってなって疲弊する。
自宅に帰る頃にはヘロヘロです。
・どうしてそこまで人のことを気にして考えてしまうんでしょう…
・でも疲れ切ってるから近しい人に優しくできないどころか
チクチクと、なんならネチネチと怒りさえぶつけてしまうのは何故でしょう。
・いつも怒りを内包しているのは何故でしょう。
ってお話です。
他人には気を使いすぎるくらい気を使えるのに。
日々日常の中に自分が居ない。
いつも誰かを気にして先の先のことまで見越して気を使ってしまう。
そして随分と気を使いすぎた割に相手にはそれが伝わらなくて悶々とした何かを抱え
心は疲弊して1日が過ぎていく。
その繰り返し。
疲弊しているから、だけどそんな自分に対して
いつも日々日常の中に自分を中心に置いてあげていないから
疲弊していることにも気がつけず
代わりに近しい人を無自覚に傷つけてしまっていることにさえ気がつけない。
他人には気を使いすぎるくらい気を使えるのにね。
本来大事な人を傷つけたくないはずなんだけど…
つまり、その気を遣う使い方。
何を恐れて
何を目的として
人に気を遣っているのか?
その結果、自分の感情はどんな感情を奥底にしまい込んでいるのか?
そこを頭の片隅に置きつつ…読み進めてみてください。
愛情は愛ではない。
愛情 は 感情。
その感情を相手に良かれと思って押し付けているものだから。
だって自分の中では絶対良いに決まってるからね。
でも逆のことされた時、そういう思いで自分がやってるからこそ
NOがなかなか言えない。
特に自分の為に相手がしてくれているからこそ受け取らないといけない。
って思い込んでいるか
もしくは
相手が自分の為に…っという思いが嬉しくて受け取ってしまうこともあるかも。
その場合、相手が自分に向けた行為の中身は関係なくて
自分にとって相手がどういう人かによる。
自分にとって相手がどういう人かではなく
お互いが要らなければ「要らない」って言える環境を用意しておくことはとっても大事。
愛の表現にしても人それぞれだから相手にそのまんま受け取ってもらえるとは限らない。
だから相手が欲しているものを知ることからですよね。
相手が自分のためにしてくれたからと言って必ず受け取らなければいけないわけではないんです。
相手も相手が欲していないのに受け取られ続けていたと知ったら
「言ってくれたらよかったのに…」って思う。
押し付けではなく、そして互いが必要としていないなら
相手の気持ちだけ受け取っておけばいいのであって…
私はそう思うんです。
(昔はこうは思えなかったけど。😅)
本音が出せない。察しろよ!気付けよ! 無理です。
大事な人に気を遣えないって言うより…
大事な人から自分が大事にされていないと感じているのかもしれないですね…
これだけ相手や周りのことや色んなことを考えてやってる自分がいるのに
なぜそこに気がつけないのだ?みたいな感じかしらね。
(知らんけど!)
そしてそれを他人に向けて行なっているんだけど
他人は、そんなの知らんからね。
「なんでそこまで考えるの?」「疲れない?」って感じだったりして。
だから、その中心に誰がいるのかってことだと思うんです。
誰もが自分の人生を生き
誰もが自分の人生という舞台では自分が主役なのに
何故か他人のために生き、自分の人生の舞台なのに他人を主役にしてしまっている。
(勿論、時と場合によります。他人の為に生きていたとしても
それが自分がやりたくてやっている行為であれば問題ないです。
自分がやりたくてやってるんですから
自分の人生の舞台でも、その自分が主役になれているはずです。
そしてそれが本当なら近しい人を傷つけることもしないはずです。
本当はやりたくないことをやっているから
内心イライラが溜まって、そのイライラを弱い者にぶつけたくなるんです。)
他人が主役ということは
自己犠牲して他者のために、やりたくもないことをやってるということ。
でも、そんなことは相手は知る由もないわけで。
相手からすれば
『主役やって良いって言うから、自分も主役やりたいしやらせてもらお!』
…ってなってるだけ。
(相手からしたらお互い一致してる。って思うしね。)
でも内心本当は自己犠牲してるわけですから不一致です。
でも、「やって良い。」って言ったのは自分。
だから相手に文句言えない。
内心は悶々する。
「感謝くらいせ〜や!」ってなる。
そして
本人にぶつけられない怒りが弱者に向く。
長きにわたって自分を中心にできなかった代償は大きい。
まず
・自分が何を感じているのかが分からない。
「何を感じたら良いのか?」と聞きたくなる。
自己犠牲型は自分が何かを感じることを罰してきたので。
・「自分の考え」というよりは、「他人の受け売りを自分の考えとする。」
他人の考えで少し変わった考え方に惹かれる傾向がある。
他者(著名人とかね)の一つ上に抜けたような文言に惹かれる。
それを取り込むことでカッコいいと評価されることを期待している。
・答えがない問題は苦手。
他人からどう見られるかが大事。
自分にとって損か得かで決める。
だから
今を生きずに未来ばかり見ている。
つまり、今この瞬間の続きが未来だというのに
今この瞬間を生きていない。
生き辛いけど、そこさえ感じることができない…
だから「”今”のその人」を受け入れられない。
例えば…の話な。
自分自身が今この瞬間を生きずに未来ばかり見ているということは
ある程度自分自身をコントロールしているかもしれません。
今この瞬間を楽しく感じて笑うとか(作り笑いではなく。)
美味しいものを美味しいと感じて食べるとか
ドラマを見て泣くとかね…
それをするより 先のことばかり頭が行ってる状態。
確かにね時間を考えて行動しないといけないこと仕事していたらありますが
それって四六時中ではないですよね。
部下を見て、後輩を見て、子供を見て、例えば
「今そんなことじゃ、この先お前どうするんだ。」
「こんなこともわからないのか?」
「これ常識やろ」
「普通さ〜」
って気持ちが湧き起こり相手に言ってしまったとする。
けど、それって
他人(家族であっても境界線ってものがありますからね。)の人生に
土足で踏み込み不法侵入しているようなものです。
今その人の状態(姿)を見た時、
未来に描く「こうなって欲しい。」と期待するその人の状態(姿)に
無理やり持って行こうとしても、それは無茶ですね。
段階がありますやん😅
自分はできても段階の踏み方やプロセスは人それぞれ違うし…
仮に掛け算の九九を1日で覚えた自分が居たとしても
1週間かかってもできない人もいるかもしれない。
1週間かかってもできない人にはどういう段階を踏んだら
時間がかかってでも覚えられるようになるか?
その人のキャパを知ってあげることからですよね?
それが今その人の状態を見極めることですやん。
その人の”今”をそのまま受け入れることができるといいよね。
そしたら会話も違ってくると思うのよ。
けどそれが自然にできるようになるには、まず
自分が今の自分を大事にできたらいいですね。
自分を大事にできるようになってくると
周りに対しても、押し付けや、ジャッジをする頻度が少なくなって
広い目で見れるようになって器も大きくなってくる。
一緒によーいどん!って同じ距離走っても、ゴールに着くのは個々違うんだと。
そうやって少しずつ気がついてくる。
下を向いていた視線が上に上がってきて視界が広がるイメージですかね。
その人を見て何か感じている自分がいるのに、
その人の為、その人の為、って言いながら
自分が何を感じているのかガン無視して
その人の為と言いながら何を埋めようとしてるんでしょうか。
だからまず自分の問題に取り組むことが最優先。
人の問題に構ってる時間なんて勿体無いわ。
自分の問題ってわかりにくい。
でも、そもそも
自分の問題自体が分からないかもしれないですね。
もしかしたら、その自分の問題っていうのは
他人のことばかりに目がいってるところかも。
それは自分の問題から目を逸らしている状態かもしれないです。
だとしたら
自分の問題を見たくないなら見なくてもいい代わりに
他人の問題を気にしすぎることはやめましょう。
まずは自分を中心において感じてみることから。
でも
今まで自分の心の声をガン無視してきた人にとって
『頭でわかったよね?
じゃぁ今からできるよね?』
って…いきなりできますかね…
これ、残酷でしょう?
それと同じことを近しい人に無自覚にしないで済む為にも
今自分が抑え込んでいる気持ちは何なのか?
自分だけに教えてもらえないか?
と自分の内側にいる小さな自分と交渉してみる。
誰にも言わないからと。
そうやって少しずつ…
自分の本当の気持ちに気がついてあげること。
『今はそれだけでも十分😊』
今の自分ができることから始めていきましょう。
カウンセリングを受けようと行動を起こすには それ相当の勇気が必要だと思います。 その勇気、私は歓迎いたします。(^^) Facebookではプライベートも呟いております。 藤田侑杏恵Facebook |
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