大切な人を亡くした時、
そこにはそれぞれの想いがあります。
誰に気を遣うでもなく、
遠慮するでもなく、
気が済むまで、
やりたいことをやってあげてください。
話しかけてもいい。
泣いてもいい。
思い出してもいい。
その人を想う時間そのものが、
きっと大切な悲嘆の時間なのだと思います。
今日は、
今、まさにグリーフ(悲嘆)のなかにいる私自身の体験も交えながら、
感じていることを書いていきたいと思います。
「楽しい思い出を語ってあげて」が苦しく感じる時
大切な家族や愛犬(ペット)など、愛する存在を亡くした時。
人はアドバイスとして、
その人を少しでも前進させたいという思いから、
「泣いていたらあの子が浮かばれないよ」
「楽しい思い出を語ってあげて」
「あなたが悲しみ続けていることを望んでいないよ」
「あなたのもとで幸せだったに決まってる」
そんな言葉をかけがちです。
きっと、
多分、
恐らく…。
悪気はない。
励ましたい気持ちなのだと思います。
でも、
悲しみの真ん中にいる時ほど、
その言葉が苦しく感じる人もいます。
(グリーフケアについては、
私自身が過去に子どもを亡くした経験から学び続けているケアですが…。)
最近亡くなった愛犬のことを思いながら、
改めて「悲嘆(グリーフ)」やグリーフケアについて思うことが出てきました。
愛する存在を亡くした後、人は何度も問い続ける
愛する存在を亡くした後、
恐らく多くの人が、
繰り返し自分に問い続けます。
「あの時、辛くなかっただろうか…」
「あの治療で良かったのだろうか…」
「本当はどうして欲しかったのだろう…」
これは、
後悔したいわけではありません。
それだけ大切だった。
それだけ愛していた。
だからこそ、
何度も何度も、
心が確認し、問い続ける。
私は、
“後悔のない看取り”
というものは、
恐らく、存在しないのではないかと思っています。
どれだけ考えても、
どれだけ尽くしても、
「あれで良かったのかな…」
この思いは残る。
でもそれは、
愛情が足りなかった証ではなく、
それだけ愛していた証なのだと思うのです。
愛して、
愛して、
とにかく、どんな姿になろうとも、愛おしくて…
どれだけ愛しても終わりがないほどの
あふれる愛を
与え続けていたんだと思います。
「喪に服す」という大切な時間が人には必要です。
日本には、
「喪に服す」
という言葉があります。
この言葉には、
とても大切な意味があると思うのです。
大切な人や、
大好きだった存在を失った時
心にぽっかりと穴が開いたようで
直ぐにはこの現実が受け入れられなくて
でも、
ずっと苦しんでいた姿
苦い薬を我慢して飲んでいた姿
痛い治療を頑張っていた姿
ペットは、
自分で苦しさや希望を言葉に出来ない分、
飼い主は
「これで良いのだろうか」
と、
最後まで考え続けるのだと思います。
それに対して
文句言わずにすべてを受け入れ
飼い主が決めた治療を淡々とこなし
最後の最後まで主を信じたまま逝く。
だから、これで本当に良かったのか?と思うのです。
心は複雑だから
闘病していた姿を間近で見続けていた者は
「これで、もう苦しまなくて良いね。」
「苦い薬も飲まなくて良いね」
「痛みや苦しみから解放されて、やっと楽になったね。」
そう思ってホッとする自分もいたりするんです。
けれどそう思う直ぐ後から
「私は何もできなかった。」
「何が正解で何が最善で
何をどうしたらいいのか
最後の最後まで分からないままだった。」
あの子がどうして欲しいか
何が一番楽な状態か
考えて考えてその都度決めてきたつもりでも
自分責めはやらずにおれないものです。
そして
もう姿が見えない現実に
体温を感じられない温もりに
悲しくて、
会いたくて、
涙が勝手に流れ出て、
何も手につかなくなる。
その時間を、
「ちゃんと悲しんでいい時間」として、
人は昔から持っていたのではないでしょうか。
悲しみは、
頭で整理して終わるものではないからね。
十分に悲しむ時間が必要です。
泣きたい時に泣き、
苦しい時に苦しいと言い、
会いたい時に会いたいと言えること。
実際にもう会えないと分かっていても
「会いたい」
と口に出して言いましょう。
それは決して、
“前を向けていない” というわけではないのですよ。
むしろ、
その悲しみを丁寧に通っていくことこそが、
少しずつ現実を受け入れていく過程なのだと
私は思います。
けれど、直ぐに泣けない人もいます。
泣くという行為について補足。
人によっては直ぐには泣けない人もいます。
私の体験では、明日も普通にやってくると思っていた日常が
突然奪われたあの時は
長い間
声を出して泣くことは出来ずにおりました。
その場合は、無理に泣こうとしなくて良いんですよ。
こんな悲しいことが起きたというのに
私はなぜ涙が出ないのか?
なんて冷たい人間なんだ。
そんな風に思う必要は全くないです。
心が今起きていることを受け入れる準備がまだできていない。
そういうこともあるからね…
正しい言葉”より、“否定されないこと”が支えになる時がある
そして私は、
悲嘆の真ん中にいる人は、
“正しい言葉”より、
“今の気持ちを否定されないこと”
…の方が、
深く支えになる時があると思っています。
だから私は、
悲しみの中にいる人に、
「もう大丈夫」
「元気出して」
「楽しい思い出を語ってあげて」
と急がせるよりも、
「まだ苦しいよね」
「会いたいよね」
「後悔も出てくるよね」
と、
その悲しみを感じたいだけ感じ続けて良いのだと、
言葉にせずとも黙って伝えたい。
悲しみの中でも、心は自由でいていい
そしてこれは、
以前書いた
「何が起きようとも、心は自由でいていい」
(この記事は悲しみの中であっても心は自由でいて良い。
ずっと悲しみ続けていなければいけないわけではない。という内容です。)
この記事とも、
実は深く繋がっています。
悲しい時に笑ってしまう自分を責めなくていい。
逆に、
泣きたい時に泣く自分を責めなくてもいい。
笑ってもいいし、
悲しんでもいい。
どちらか一方だけが正しいわけではなく、
心は本来、
揺れ動くものなのだと思います。
そしてそうやって歩を進めていくんだと思います。
だから、
「いつまでも泣いていてはいけない」
も、
「悲しみ続けていなければならない」
も、
どちらも違う。
悲しみの中にいる時、
人の心は、
行ったり来たりしながら、
少しずつその現実と共に生きていく。
その揺れそのものが、
自然な悲嘆の過程なのだと私は感じています。
余談ですが…
私は今でも毎日話しかけ、ご飯を作ってあげています。
「こういう時、いつもこうしてたよね?」
…と夫と日常の中で
あの子のことを笑顔で、
時には泣きながら、
普通に、当たり前のように、
そして
今、此処にいるかのように
話しています。
きっと今、こうしてる、ああしてると言いながら。
この日常を愛おしくも思い、大切な時間だと感じています。
きっと第三者から見たら、
不思議に見えるのかもしれません。
でも今の私たちにとっては、
それもまた、
大切なグリーフの時間なのだと思っています。
大切な人を亡くした時、
そこにはそれぞれの想いがあります。
誰に気を遣うでもなく、
遠慮するでもなく、
気が済むまで、
やりたいことをやってあげてください。
話しかけてもいい。
泣いてもいい。
思い出してもいい。
その人を想う時間そのものが、
きっと大切な悲嘆の時間なのだと私は思います。
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何が起きようとも、心は自由でいていい
執筆:家族関係の心理カウンセラー 藤田侑杏恵
stand.fm配信 #464
このような思いで、日々カウンセリングを行っています。
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