「お兄ちゃん」と呼ばせなかった理由|きょうだい関係にある見えない力の差

安住紳一郎さんの話を聴いて思い出したこと

先日、TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」の過去配信を聴いていました。
(2010.09.12「姉と弟」(316) 2010.09.12「姉と弟」 – YouTube

その中で、安住さんがお姉さんとの関係について話されていたんですね。
二つ上のお姉さんがとても優秀で、何もかも自分より先を行っているように感じていたこと。
太陽のように明るく照らすお姉さんが眩しくて
自分は暗くなるしかなかったように感じていたこと。

そして、お姉さんがなりたかった「テレビ局のアナウンサー」という仕事に自分が就いたことで、そこだけが唯一、姉に勝るところだったように感じていたこと。
(ここは現在進行形だったように思います。)

自らをシスターコンプレックスの塊だと。
ちょっとカッコ悪い自分も恥ずかしい自分もさらけ出す。

ラジオでの安住さんのしゃべりは
いつも軽快で、そして自虐的で、
そこがまた人間味あふれる親しみやすさ、親近感を私は感じられ、
お腹を抱えて大笑いすることが多いのですがwww
(正直なところ、どんだけ大声で笑ってしまったか分かりませんwww安住さんごめんなさい💦)

けれど、その話を聴きながら、私はとても興味深く感じていました。

心理学には「交流分析」というものがあります。

人は、幼い頃に自分が置かれた関係性の中で、
「私はこういう立ち位置の人間だ」
「相手はこういう存在だ」
という感覚を、無意識のうちに身につけていくことがあります。

それは親子関係だけでなく、きょうだい関係の中でもあります。

「お兄ちゃん」と呼ばせなかった理由

そんなことを思いながら、私はふと、あることを確認したくなり
べっぴん娘に共通するSNSのメッセージを使って聞いてみました。

実は、べっぴん娘が生まれた時から、私はイケメン息子のことを
「お兄ちゃん」と呼ばせず、名前で呼ばせてきました。

「お兄ちゃんだから上」
「兄だから従う」
「年上だから偉い」

そういう関係性を、できるだけ子どもたちの間に持ち込みたくなかったんです。

イケメン息子は好きで最初に生まれてきたわけじゃない。
べっぴん娘も好きで二番目に生まれてきたわけじゃない。
(中には子どもは親を選んでいる…という説もありますが…それは私は知らんし。)

もちろん当時の私は、そこまで言語化できていたわけではありません。
でも、私自身の育ちの中にあった”きょうだい関係”のしんどさが
確実に影響していたと思います。

それでべっぴん娘に聞いてみたくなったんですね。
(掲載許可はべっぴん娘からはもらっています。)

『兄に対して、
「この人は私の兄で、私より上で、私よりいろんなことが優れている」
そんなふうに感じたことはあった?』と。

べっぴん娘からの返事は
『安住アナの話のように、勝ち負けとか、光と影のような強い感覚はなかった。
でも、考え方の面では、兄が常に先を行っていて、追いつけないように感じていた気がする。
兄の方が情報量も多くて、兄が良いと言ったものや、批判したものを、
そのまま正しいと思っていた気もする。
社会人になって、自立して一人で生活するようになってから、そのあたりは落ち着いたと思う。』

こんな内容の返事でした。

呼び方だけでは作れない対等な関係

それを読んで、私は思いました。

ああ、そうか。
対等な立ち位置というものは、呼び方だけで成り立つものではないのだな、と。

私は、べっぴん娘にイケメン息子のことを「お兄ちゃん」と呼ばせないことで、
きょうだいの間に上下を作らない関係を期待していたんです。

でも、年齢差がある以上、そこにはどうしても様々な差が生まれますよね。

先に生まれた子は、先にいろいろなことを経験しています。
知っていることも多い。
できることも多い。
情報量も多い。

下の子は、どうしても教えられる側になりやすい。
自分で見つける前に、上の子から答えをもらうこともある。
そして、その積み重ねも相まって上の子の言うことを
「正しい」
と受け取りやすくなることもある。

これは、親の育て方だけでどうにかできるものではないのかもしれません。

べっぴん娘はその後、こうも言っていました。

『家庭の外でも、兄であることを意識する機会は必ずある。
成長速度や、できる・できないの差は、事実としてあるから感じてしまうものだと思う。』


ああ…本当にそうだな…と思いました。

最初に与えられた関係性は、大人になってからも影響する

親子関係も、きょうだい関係も、最初から完全に対等ではありません。

親と子には、最初から大きな力の差があります。

体の大きさも違う。
言葉の力も違う。
経済力も違う。
決定権も違う。
子どもは、大人の力の中で生きていくしかありません。

きょうだいであっても、年齢差があれば、そこには必ず良くも悪くも力の差が生まれます。

問題は、力の差があることそのものではないのだと思います。

力の差がある関係の中で、強い側がその力をどう使うのか。
そして、弱い側がその関係の中で、どんな自分の立ち位置を身につけていくのか。

そこがとても大切なのだと思います。

親子関係では、子どもが大人になると、やがて力関係が逆転することがあります。

親は年を重ね、体も弱っていきます。
子どもは大人になり、判断力も経済力も持つようになります。

でも、例えば、幼い頃に虐待を受けていたり、ぞんざいに扱われてきたりした人は
今は自分の方が力を持っていると頭では分かっていても、
親に対して、自分がされてきたようなことを簡単にはできなかったりする。

それは優しさからかもしれないし(痛みを知っているからね)
でも同時に、傷でもあるのだと思います。
(相手は自分より上で強くて怖い。…という立ち位置が植え付けられてしまっていて
その関係性ががっちり鍵がかかっているかのように動かしようがない…と思い込まされている。
「サーカスの像」状態ですね。)

本当は怒っていい。
距離を置いていい。
助けない という選択をしてもいい。

それでも心のどこかに、
「親には逆らえない」
「強い人には従うしかない」
「自分の気持ちは後回しにするもの」
という感覚が残っていると、これらは大きな壁となります。

(この壁を乗り越えるのは人によってはサポート無しでは大変だと思います。)

そして、この最初に与えられた関係性は、親子関係の中だけでは多分、多くの人は終わらない。

夫婦関係の中で。
職場の人間関係の中で。
友人関係の中で。

自分より強く見える人。
正しそうに見える人。
先を行っているように見える人。
感情で圧をかけてくる人。

そういう相手を前にした時、過去の自分の立ち位置が、無意識に呼び起こされることがあります。

今、目の前にいる相手は親ではない。
兄でも姉でもない。
昔の誰かでもない。

それでも心の中では、
「あの時と同じ場所」
に一瞬でタイムスリップをして戻らされてしまうことがあるのです。

感謝の前に、見つめなければならない関係性がある

先日、私は母の日についての記事を書きました。

母の日が苦しくなる人もいる。感謝は強要されてするものではありません。

この記事を書いたのは、
「親なのだから感謝しなさい」
「育ててもらったのだから許しなさい」
「家族なのだから仲良くしなさい」
という言葉の中に、時に、過去の力関係をそのまま温存してしまう危うさがあると思うからです。

親子であっても。
きょうだいであっても。
夫婦であっても。

そこにあった力の差や、傷ついてきた側の気持ちが見えないまま、
「感謝しなさい」
「許しなさい」
「家族なのだから」
と求められる時、傷ついてきた人の心は、また置き去りにされてしまいます。

大切なのは、誰かを責めることではないのだと思います。
(でも、責めたくなるけどね。)

自分がどんな関係性の中で育ってきたのか。
どんな立ち位置を身につけてきたのか。
どんな相手を前にした時に、自分を小さくしてしまうのか。

そこに気づいていくことなのだと思います。

呼び方を変えること。
言葉に気をつけること。
子どもを一人の人として見ること。

それらは決して無意味ではありません。
(べっぴん娘の言葉から私はそう感じています。けれど絶対でもない。)

でも、それだけで関係性のすべてが整うわけでもありません。

だからこそ時々、立ち止まって見つめることが大切なのだと思います。

この関係の中で、誰かが小さくなりすぎていないか。
誰かの気持ちが置き去りにされていないか。
強い側の正しさだけで、関係が進んでいないか。

家族という近い関係だからこそ、見えにくい(認識しにくい)力の差があります。

そして、その見えにくい力の差に気づくことは、
自分を責めるためでも、誰かを裁くためでもなく、
これからの関係を少しでも安心できるものにしていくための、大切な一歩なのだと思います。

感謝をしない人が冷たいのではなく
感謝という言葉の前に、見つめなければならない関係性がある。


私は、娘とのやり取りを通して、改めてそのことを感じました。

そしてこれは、親子関係だけの話ではありませんね。

夫婦関係の中で、なぜか相手に強く出られない。
職場や人間関係の中で、いつも自分の気持ちを後回しにしてしまう。
本当は嫌なのに、相手の機嫌を優先してしまう。

そんな時、今目の前で起きていることだけではなく、
過去のどこかで身につけてきた「自分の立ち位置」が、今の関係に影響していることがあります。

自分が弱いからでも、冷たいからでも、感謝が足りないからでもありません。

もしかすると、ずっと昔から、
自分を小さくすることで、自身をある意味守ることができていた経験から
その関係を保とうとしてきたのかもしれません。(生きていくためにその時は必要だった。)

もし、家族や身近な人との関係の中で、
いつも苦しくなる立ち位置に戻ってしまうのなら、
その苦しさを「自分の性格」だけで片づけなくてもいいのだと思います。

そこには、これまで生き続けるために無意識に身につけてきた「理由」がある。

その理由に気づいていくことは、
誰かを責めるためではなく、
これからの自分を少しずつ自由にしていくための一歩なのだと思います。

執筆:家族関係の心理カウンセラー 藤田侑杏恵
stand.fm配信 #463

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※音声配信は脱線しながらブログを読み上げて語っておりますが
ブログ記事は後日加筆修正されることがあります。


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