子供をうまく愛せないあなたへ…

愛せないあなたに問題があるとか、あなたが悪いとかではありません。

自分の内側に無ければ外側に答えがあるんだと勘違いしてしまうものです。

8月27日SNSでこんな投稿しました。

外側にはいつも答えはなくて
だからと言って自分の内側にも答えが見つからないものだから
情報が欲しくて色んな発信者から答えを得ようと彷徨うけれど
どの発信者達も自分にピッタリな答えは発信してないもので

結局自分を見るしかないのだと分かっていても

怖くて見れないものです。

それが人。

発信者達は答えを持っているように見えて
分かっているように見えて
そうすると
持っていない自分
分かっていない自分に
恥を感じ
焦りを感じ
人々が理想とする考え方や姿の情報を見る度に
自分には程遠く感じられ
必要以上に
自分は何も無い気持ちにさせられてしまいます。

悲しい情報かもしれませんが
残念ながら
外には答えはないものだから
自分の内側を知ることで
あなたのための答えがあって
その答えも
あなたに探してもらえるのを待っていて
ジリジリしながら待ち侘びているものだから

一緒に探しに(伴走)行くことならできますが
本当に答えを差し出すことは支援者達は

誰にも

できないことなのです。

愛せない。子供が可愛いと思えない。避けてきたわぁ〜

便利な時代になったものです。
分厚い辞書が手元になくても数秒でスマホを使えば分からないことは検索かけて探すことができます。

近頃ではさらに便利なツール、AIがカウンセリングをしてくれるらしいからね。

このブログだって議題を与えればAIが理論的に数秒で書いてくれるらしい。

だけど私は持病の痛みもあってかなりの時間をかけて少しずつ手作業で自分の頭を使って書いている。

堅物な頑固ババ〜かもしれませんね。

AIに私のブログを与えて学習させたら私流に書いてくれるらしいけれど…
使わないっっw

さて、横道逸れちゃった😅(こんなことだって多分AIはしないよねっっw)

愛せない。子供が可愛いと思えない。

私は今までここに触れることを避けてきました。
実際、そういう親御さんは居るけれど、
それを口にすることや言葉にしてブログやSNSで投稿することを避けてきました。
(でもどの投稿もブログもこの文字を書かないだけで言いたいことは言うてるんやけど。)

誰だってポジティブには目を向けやすいけど、こんなネガティブなことに賛同したくないし
いいね👍
なんてしたくないでしょう。

そもそも巷では「母親とは愛溢れる母性の象徴」ですから。
何をおいても子供のために身を捧げ守ろうとする。
そういう美しい姿ですから。
それを汚すような投稿は承認できない。
でも本当は知っている。
そうではない母親がいることも。


ある日気がついたんです。
かつての私もそうだったやんね。
でも、どうやって今に至ったかは伝えきれないプロセス。
これを聴く人(音声配信)や読む人に理解を得ることは難しい。

そう思うと見ないフリしてたなと。

でもそういう人達に私は一番手を当てたいと切望しているというのに
それでは苦しすぎますよね自分が。

それに理解を得るのは難しいと思ってる時点で
理解させたいと思っているということ。

受け取り手の自由やし、何なら
今はまだ知りたくない人や見たくない人にまで
分からせようとする必要もないわけで。

今必要な人や今このタイミングの人に読んでいただければいいのかなと。

このブログは残るわけだから必要な人が必要なタイミングで拾ってもらえればいいんですから。

愛が分からないだよ。そもそも手元にないものは出すことはできないからね。

愛がわからないのは「愛とはこういうものだ。」という明確なものがないからだと思います。
ググってみても私には「ああ、なるほどな!」とは思えない。

押し付けの愛、条件付きの愛、そんなものは私は愛とは思わない。

そもそも私は子供ができても、子供を亡くす経験をしていても、
子供達二人をうまく?ちゃんと?愛せなかったと思っているし
(何ならこの世に愛なんてものは存在しないと思っていたし。)
愛という言葉を聞くだけで見るだけで反応して
「そんなものはないんだよ。私に見せるんじゃないよ。」
ってまだ駆け出しの頃、同職の友人にプライベートでランチした時に言ったことがある。

この仕事しているのは、そういう人が多いだろうと思い、そこを癒したいと思っている癖に
自分が「愛はない。」と思っている時点で人を癒やせやしないよね。

私のことを愛しているなら〇〇してくれるはずだ。

愛が分からないでいると
自分の中で勝手に方程式を作って「試し行動」をしてしまうものです。
自分の内側に愛がないものだから
外から与えられて埋めようとする。


当然よね。無いんだから。無いから分からないんだから。
愛がどういうものか知らないから欲するし確認したいわけです。

条件付きの愛や、押し付けの愛ではなく
育まれるべき時期に与えられてこなかったために枯渇した状態ですから

あの時与えられてこなかったから好きな人から与えられ
そしてそれによって満たされ安心したいと。

だけど自分が思う愛と相手が思う愛が一致していなければそもそも成立しない。
育まれるべき時期に満タンに与えられていれば
他者から与えられなくてもすでにもう自分の内側にあるので
他人から与えられたいと欲することはないと私は考えています。

でも考えてみて。

人は与えられてこなかったものを望むものです。
そして
その与えられて来なかったものは人によって一人一人中身は違う。

幼少期にどんなものを与えられてきたか?
与えられてきたものは、もう満たされているからお腹いっぱいです。
だから
それとは逆のものを欲するわけです。(「だから一人一人中身が違う」としつこく言う。)

それは誰もがです。

自分が異常では無いんです。

ただ逆のものを与えられるチャンスが無く、親にそれを訴える機会も与えられず
そこを満たせないまま自分の中で欠乏感だけが残り
自分は人として何かが欠損してる気がして自信が持てなかったり
自分の考えは間違っている、人から見たら自分なんておかしいんだと思い込んでしまったり。

そして与えられてこなかったものを与えたら喜ぶと思う勘違いのループにはまる。

あなたはどうしたいの?
あなたはどう思ったの?

又は、ことが終わった後でもいいから

あなたはその時どうしたかったの?
あなたはその時どう思ったの?

大きく言うとこの二つを自分に聞いてもらってきただろうか?
(もちろんこの言葉を言える環境下で。
言葉を発する機会を与えてもらえなかった人が
いきなり聞きまくられたって、答えられないってもんです。)

聞かれてこなかったものを
与えられてこなかったものを
自分が欲し
でも言えなかった
伝えられなかった
届かなかった

だから

それらを子供に与えることが愛だと勘違いする。
(習い事だったり、食べ物だったり、好みの服だったり、行きたい学校だったり)

それは誰を中心にしているのだろう。
その子を通じて自分を満たそうとしているだけだというのに…
これが押し付けの愛ですよね。

欲しかったものは代わりに与えられるのに。
だけど
言われてこなかった言葉は与えることができない。

「何がいい?」「どうしたい?」「ああ、よくできてるね。」「この状況でよくここまで出来たね。」「ありがとう。」「助かったよ。」「大好き!」「愛してるよ!」「うんうん!OK!」



でもこんな言葉は言われてきたかもしれない。
「〇〇ができたら✖️✖️してあげてもいいよ。」「お利口さんやから〇〇してくれるよね?」

これが条件付きの愛ですよね。


こういう話を書き出すとほんまに長くなる。
毎回長いですけど😅
この続きは次回(明日いつもの時間に)投稿しますね。
今日はここまでにしておきます。

必要な方に届きますように…


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それ相当の勇気が必要だと思います。
その勇気、私は歓迎いたします。(^^)

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